2023年2月24日

千田えみ子物語 ― 生い立ちから区政へ挑戦まで 

あかね 2023年2月24日号 第137号 (PDF)

生い立ち

巣鴨で両親と兄、姉の末っ子として生まれました。父は塗装業で、家の一階が作業場でした。六畳一間に家族5人の生活でしたから、小学生の時は、板を膝の上に置いての勉強でした。体を動かすことが大好きで、家に帰るとすぐに外に飛び出し、ロウ石で歩道に絵を描いたり、ゴム跳びや縄跳びをして暗くなるまで遊びました。                                     中学生時代

お金がなくて塾には通えませんでした。当時、夏休みには、地域で東大の学生さんたちが教育実習もかねて、子どもたちに勉強を分かりやすく教えていましたが、そこでの数学の勉強が楽しく、たまらなく好きになりました。答えは一つで、そこに辿り着くのに、思考が論理的で明晰なところでした。 

豊島高校時代

高校の数学テストがいつも満点なのを見た伯母から「えみちゃん、数学が好きなら、薬剤師になったら」と言われ、化学も大好きで、いまでいう”リケジョ”でしたから、職業選択に「薬剤師」もありかなと思うようになりました。薬科大学をめざすとしても、お金がないから、一度は諦めかけました。でも、ラジオ講座で勉強すれば、テキスト代くらいで学べるのでは思うようになりました。そんな時、すでに社会人になっていた姉が「学費はなんとかする。働けば奨学金は返せるから」と後押ししてくれることになり、薬科大学への進学を決めました。寒い冬、手袋をして炬燵で夜遅くまで勉強している私の身体を心配して、父は石油ストーブを奮発してくれました。

コロナ禍のいま、医療を考える

大学卒業後の1980年に薬剤師国家試験に合格、調剤薬局に勤務しました。コロナ禍のもと感染拡大が収束を見えない中での医療の職場はいま、人手不足で大変な状況になっています。医師や看護師の中には子育てしている人もいて、本当にギリギリの人数でやっています。特に、薬剤師は余裕のないシフトでやりくりをしています。ここには行政の本気の取り組みが見えてきません。入院の選別が始まり、医療機関と連絡が取れないとき、自宅待機者の気持ちを汲み取っているのだろうか。何故有効な手段を取らないのか。医療関係に関わる者として、
こんなことの繰り返しは許されるはずはありません。

私のいま、そして区政に挑戦

大学の同級生と結婚、32歳で娘を、35歳で息子を出産。結婚して20年後に離婚しました。1999年のことです。そして離婚訴訟裁判が始まった年の11月、小1の息子が交通事故に遭い、後遺症が残りました。今は、その息子と2人暮らしです。離婚して、そして一人で働き、子育てをしてきて、女性の苦しみ、悩みを自分のこととして受け止めることができるようになったと思います。

私のこうした経験や思いを、こんどは区政に活かします。全力で頑張ります。

Twitter @emikosenda